2014/02/21

骨太のデザイン考

  遅ればせながら、カニエ・ウエスト『イーザス』を購入。
  カニエ・ウエストはそれほど好きだった訳ではないが、各音楽メディアが2013年のアルバム・ランキングで圧倒的な支持をしていた(ちなみにローリング・ストーンズ誌で2位、SPIN1位、ビルボード誌2位)ので、気になっていた、という次第。
  で、びっくりしたのがそのCDジャケットのデザイン。これがなかなかいい。通常、アルバムのジャケットはアーチストの写真や絵やグラフィックなど、アルバムの顔となるべくヴィジュアルがあり、ライナーノーツや歌詞カードが入っているのだが、それらの要素は全くなし。透明なケースのみ、後はオレンジ色の紙の封がしてあるだけ、というデザイン。このデザインはある意味究極だ。そぎ落としたデザイン感。まさに骨太のデザインと言うことができるだろう。
  最近この骨太のデザインということが気になっている。もちろん骨太というのは、いわゆる有機的とかヴァナキュラーな方向等へとつながるような建築形態そのものの骨太さ、という訳ではなく、建築(デザイン)そのものがもつテイスト?のようなもの(なかなかうまい表現が見当たらない。。。)である。昨年『リノベーション・デザイン』(エイ出版)という本でアーツ前橋をとりあげていただき、インタビューを受けた際に、「建築のもつ多様な要素をそれぞれのキャラクターを大切にしながら配していき、ジャズのモードのようにつなげてゆく。」というコメントをさせていただいたのだが、そのモードということにつながるのではないか、と考えている。
  マイルス・デイヴィスの『KIND Of Blue』は機能和声によるコード進行という概念から、モードという概念が生まれた瞬間である。それぞれ異なったモード=旋法=音列で音楽の流れを構成していく手法であり、「1つのモードは、たとえその音列の響きが不安定だったり中途半端だったりしても、それはそのモードが持つ個性ということで、それがどこに向かて進行したりすることを目指したりしない」という特質がある。2つもモードの間には主従関係はないのである。これによりアドリブに使うことのできる領域を確保することになったとされている。コードが進行する現象自体を廃棄して、モードというシンプルなルールに従って曲を構成することにより即興演奏の規範自体を更新することに成功している。アーツ前橋では、建築のデザイン操作によくみられる、ある強いヒエラルキー状のデザインコンセプト等の下に統合しないということをこころがけた。空間を純化してしまわず多様性、複合性を丁寧にくみ取ることにより、その複合性が持ちうる「ひっかかり」がまち(市民)の姿や活動と美術館の活動を結び、建築が街にまでつながるさまざまな可能性をつくり出していく、というようなことを考えているのだが、そんな流れをカニエ・ウエストから連想してしまった。さて、アルバムの内容自体もあまりに刺激的でブっ飛んだ。個人的にはある意味オーセンティックなロックが好きなんだけど(笑)、これは、もうラップという括りではないかもね。何となく、方向性は全然違うけどトム・ヨークのチャレンジングな姿勢と相通じるところがあるかもなぁ、と勝手に思ってみる。まだ、ちょっと理解するのに時間がかかりそうだけど。。。だからこそ、いいのかも、と思ってみてみる。(TM)


 



  

2014/02/11

卒業設計ということ2013

武蔵野大学の卒業設計の公開審査会。武蔵野大では例年この審査会で卒業設計の順位が決まる(1位~4位まで)。先日少しブログに書いたが、今年度の作品が押並べて完成度が低いので、審査会も低調にならないか心配していたが、なかなか面白かった。最初の審査員の投票結果から3作品が通過し、議論のテーブルに上げる4作品目を選ぶ議論が特に興味深かった。
 卒業設計に関しては各大学特色があり、評価軸は異なる。武蔵野大学は今年の4年生が8期生という比較新しい学科ということでまだ多様な評価軸の中で動いている。これは、伝統のある大学にみられる保守性からはまったく考えられないことと思われるので、いい意味で捉えたいところである。さて、4作品目をセレクトするプロセスで、その評価軸をどこに定めるかということで、審査員の間で非常に多くの議論を経られ、これまでの学科の経緯や今後の方向性などもふまえた議論が伯仲する。そして意外なことに最終的には非常にプレゼンボードとしての完成度が低いと思われた作品が勝ち抜ける結果となった。僕個人的にはこの作品が、テーマ性、建築の建ち上がっている姿、提案の意味(社会性としての)、など総合的にみて一番評価していたので、プレゼンの未達感は目眩がするほど残念だった訳だが、最終的には浮かび上がってきたところに建築の力という面白さを感じた。最近少し考えている、骨太なデザインとは?、というようなことと少し繋がるのではないか、と思わされた。(この骨太のデザインに関してはまだ言葉がうまくまとまっていないので、また後日ブログに書きたいと思っている次第です。はい。)
 さて、最終的な結果は、議論で1位が議論で決め切れずに決戦投票に持ち込まれるという流れに。結果は1位が同率2作品並んだので、再度2作品で最終投票。今年度は審査員が8名と偶数だったので、その結果が何と!4対4で決着つかず。最後は審査委員長決裁という、なかなか幕が下りない的な楽しさもあり、オーディエンスはかなり盛り上がったのではないだろうか。研究室としてはゼミ生が1位、2位、4位に3名も入ってしまい、審査会の後半はほとんど馬群に沈む競走馬状態で、何もコメントできなくなる、という自分の不甲斐なさを露呈してしまい、若干猛省することとなってしまった。水谷研としては昨年に引き続き卒業設計2連覇、ということでゼミ生の中では静かに盛り上がっていた。この1年いろいろあったけど一大イベントが終了。4年生は本当におつかれさまでした。
 講評会後は恒例の大宴会。吉祥寺ハモニカ横丁のいつもの店でみんなの労をねぎらう。審査にご参加いただいた、建築家の大塚聡さんや、学科の伊藤先生も会に参加いただき、今日の審査会の話や建築の話、恋の話?などで盛り上がる。気づいたらまたもや日付が変わっていた。連日の講評会もこれでおしまい。さて、年度末に向かい加速していきます。(TM)

2014/02/10

イスをつくる2013

武蔵野大学で木工家具(椅子)をつくる実習授業(環境プロジェクト特別演習)を通年で展開していて、今日はその最終講評会。ゲスト・クリティークとして木工デザイナーの渡邉浩幸さんにお越しいただき、一緒に講評していただく。全部で12作品がUPした。ちなみに、例年非常に抽象的なお題を提示する訳だが、今年度は、
『色彩を持ちあぐねている君と、
彼、或いは彼女の逡巡の都市、、、を見つける 
そんな時に座るイス』
というもの。
学生は協働作業と並行して、この課題に1年間取り組む訳である。今年度は学生それぞれのデザインにもヴァラエティがあり、渡邉さんとの講評もドライブ感が出ていい雰囲気だった。椅子という家具はある意味建築とプロダクトの中間に位置するようなものだと思うので、デザインの思考も両サイドからの展開が絡んでくる、のではないかなぁと思っている。そんな中で大切なのはシンプリシティということと、プレイフルということなのではないかと改めて感じた。それはコンセプト、デザイン(造形含む)、仕上げ、それぞれに共通することで、それらがいい感じでリンクが貼れていると、いい椅子なのではないかと思う。そして確かにこれらは建築デザインにもつながる。
講評会も終わり、吉祥寺に渡邉さんと繰り出し、そこに盟友、建築家の佐野修さんも加わり、3人でワイワイと諸々喋り倒す。この3人が揃うと、だいたい仕事の話はしないので、とても楽しい。あっという間に時間が流れ、気付いたら0時になってしまいました。お2人とも遅くまでありがとうございました。さて、明日は卒業設計の最終審査会。講評会連投である。(TM)



2014/02/09

雪かき的な思考


雪があがる。夜のうちに止んでよかった。朝ご飯を食べて、速攻で雪かきに。昨年の雪が降った時に雪かきを怠ったせいで、ものすごく困った想い出があるので、今年は早目の行動。ご近所さんにもここは気を使うところ。
さて、早めに動いた甲斐があり、ご近所の中では2番目の出動。汗かきかきで雪をかいていく。
ここで、ふと、協働のデザイン≒コラボレーション・デザイン(勝手に言葉つくってます。はい。すみません。)のある一面とはこういうことではないかと思う。特にダイレクトなコミュニケーションをしている訳ではないが、繋がっっていくアクティビティというものがある。写真は1番目の雪かき跡(みち)に、我が家の2番目がつながっている様子。ちなみ写真には映らない背後のアングルで3番目が繋がり、今、前方ちょっと向こうの方で4番目のご近所さんの雪かき道が繋がろうとしている。面白いのは、それぞれの領域というものがあり、それに配慮しながら行動の範囲を決め、あるポイントで繋げていくということ。しかも特に直接的な情報のやりとりはない。
そして、うまく繋がっていく、という感覚。
  この、うまく繋がっていく、というのが大切なんだろうなぁ、と思う雪の朝。
  そんなことを考えながら、都知事選へ出かける。 (TM)

2014/02/08

雪が降る

 
 都心では20年ぶりに積雪20cmを超える大雪。
ちょっとした吹雪のように降り続ける。家に引きこもるしかなく、こういう時は本を読むしかない。
 シンシンとした中、途中でとまっていた、俳優の山崎努のエッセイ(日記?)『俳優のノート』(文春文庫)を一気に読み切る。非常に面白く、俳優の仕事というものを設計の仕事と置き換えて読んでいくと異常に感情移入してしまい、元気づけられた。
一番印象的だったのは、表現する行為にとって一番大切なのは日常性(生活)なんだ、というところ。改めて、そうだよなぁ、と感じ入る。

 「何故あんな空疎な演技になってしまったのか。それは、演技を作り上げる材料はあくまでも日常にある、ということを忘れてしまったからだと思う。演技の修練は舞台上では出来ないのだ。優れた演技や演出を見て、技術を学ぼうとしても駄目なのだ。その演技、演出はその人独自のものなのである。大切なものは自分の日常にある。」
本文からの抜粋だが、演技という文字を設計に置き換えると、ちょっと熱く感じるものが湧いてきた。寒いけど、熱いハート。大切ですよね。(TM)